Jの不思議なダンジョン

ぐちゃぐちゃな頭の中を徒然なるままに言語化していきます

すぐにネタに走る自分は何なのかの巻

Jです。

人っていろんな癖を持っている。爪を噛む、目を合わせようとすると逸らしてしまう、貧乏ゆすりをする。それらの癖を持つに至る経緯って様々だと思うのだが、僕はそれらは「社会とのインターフェースを過剰に意識(無意識の場合もある)した後に残る後遺症」なのではないかと思っている。また、それらの癖の背後には、その人にとってのターニングポイントが隠れている可能性があり、そこには現在の自分の「価値観」を形成する大事なエピソードが付随している可能性が高いのでは、と思っている。なので、回は自分の癖について考えてみたい。

 

僕は文章上だけでなく、対面社会でも話の途中に「ネタ」を挟み込むことが多々ある。

 

僕と話したことがある人は、「Jのネタは神。Jのネタの切れ味は天才的だ。おもろすぎて全米が泣く。おもろすぎて、逆におもろくない。」という印象を持っていると思う。その割合は95%を超えているとJ研究所の統計で確認されている。

 

このように、大して面白くもないネタを話の最中にぶち込んでは「今日も空は青かった」といった感じにドヤ顔をしてしまう癖がある。

 

結論的には、僕がすぐにネタに走る理由として、ビジネスライクな意味はあくまで表面上のものであり、本質にあるのは「恐れ」や「不安感」という要因が大きいのではないのか、と思っている。少なくとも、僕は体面でも文章上でも社会(人)との接点を常に意識しており、良い意味でも悪い意味でも他からどう見られているかということをとても意識している(無意識レベルでも)。人との接点を持つ際は、どの瞬間のどの場所でも、どこかにある「最適な着地点」を常に探しており、脳内での手探り状況をゲームのように楽しんで生きている自分と恐れながら生きている自分という二面性を保ち続けたまま交流している。そして、後者の自分をごまかすための手段としてネタに走る自分がいるのも知っている。もちろん全ての場合がそうであるわけではなく単純に楽しんでいる(⑴人の笑顔そのものが好き、⑵人の反応を分析するのが好き、という2つの意味で楽しんでいる)場合もあるのだが、恐れや不安を打ち消す手段の一つとしてネタを挟み込んでいる自分の方が多いのではないかと思っている。

 

後者の自分で一番嫌なのは、人を騙し続けているような感じが慢性的に続き、それが申し訳ない気持ちにつながるところである。自分でいうのも変だけど、素の自分は本当にピュアで悪意がなく、正義感がかなり強いやつだと思っている(それ故に傷つきやすく、また、自分の価値観の範疇外の人を排除しようとしてしまう傾向が過去はかなり強かった)。自分の中の不安を打ち消すために偽りの自分を意図的に作り上げる。そんなことを長年やってきてしまっていた自分がいて、それが本当に辛かった。何よりも自分自身が生きづらすぎた。今はその状態から脱却する方向に進んできてはいるが、後遺症の一つとして残っているのが、「ネタ」の挿入という形で残っていると思われる。

 

この「ネタ挿入」という癖を持つに至った経緯はおいおい書くとして、この後遺症が完全に消えることは(記憶障害とかにならない限り)ないのではないのかと思っている。しかし、諦めることは最も嫌なことなので、色々と模索しながら生きていきたいと思っている。また、この後遺症を持つに至った原因・要因を追求していくこのブログの主目的であるのでそれは徹底して追っていきたい。それが何かしらの形で残る(or次のフェイズに移行できるきっかけとなる)のであれば、嬉しい。

 

 「この内容をブログ投稿後、自分はネタを挟みづらくなるのではないか。それは今後、違った意味での生きづらさを生むのではないか。それは恐怖心を伴った生きづらさではないが...」と、今、ふと思った。あー、そう考えるとなんて生きづらい社会なんだw 山籠るかw(←あ、これはネタだけど不安感伴っていない、素の自分から出てきた言葉だ。ということは自分は先天的にネタをぶち込むように出来ているってことなのかw 生まれた時からスベるように設計されてるとかなんなんだよー、それすげえめんどくさいやつじゃん、あー、めんどくせー、山籠もるか、あー、めんどくせw)